与太話

 放課後、皆より遅れてテニスコートにやってきた小石川は、コートの入り口に見慣れない姿を見つけて一歩足を止めた。
 肩の上で切り揃えた少し癖のある髪。学校指定ワンピースにカーディガンを着た格好から、彼女がここにテニスをしに来たわけではなさそうなのはわかった。
 彼女は周りをちょこまかと動いている赤毛の少年を無視しながら、コートの中から顔を出している白石達と立ち話をしている。
 小石川が近づいていくと、丁度話が終わったようで、彼女はこちらを振り向いた。小石川に気がついた彼女は、小さく会釈をしながら横を通り過ぎていった。
 小石川はコートフェンスの入口に手をかけ、すぐそこの角を曲がっていく彼女の後ろ姿を見送りながら、

ちゃん、来てたんやな」

 と、誰に言うつもりでもなく言葉にした。そして前を向きフェンスの内側に足を踏み入れると、そこにたむろしていた部員たちから妙な視線が集中していることに気がつく。

「な、なんや?」
「健ちゃん、今なんて言うた?」

 なぜか訝しむような眼差しを向けられ、小石川は戸惑いながらおずおずと繰り返した。

「え……せやから、ちゃんきてたんやなって」

ちゃん?」
ちゃん?」
ちゃん……?」
「お前、のことちゃんって呼んどるん?」

「な、なんや?なんか変やったか?」

 彼らが何を咎めているのかがわからず、狼狽える小石川に財前が聞いた。

「小石川さんて、あいつと面識あったんすか」
「いやあるやろ!ちゃん全国大会に来とったし、今俺にも挨拶してくれたん見とったやろ?」
「今のは挨拶に含まれんのか?」
「知らんヤツにもする奴やん」
「もー何言うてんねん~。健ちゃん全国大会来てないやろ~」
「いや居たわ!!めっっちゃ応援したし会話もしたし、なんならお前と夜同じ部屋やったわ!!!!!!」

 最初の二人はともかく、最後の金太郎の言葉は血も涙もなくて小石川は声を大にしてツッコミを入れる。悪魔のような無邪気さで、金太郎はけたけた笑いながらも、うそうそ、と小石川の肩を叩いた。
 彼らはどうやら、彼女と自分がまともに面識もないのに下の名前で呼んだことに引っかかっていると小石川は理解する。

「まぁ、でもぶっちゃけ、まともに話したことは無いんやけどな」

 話を戻して小石川が素直にそう話すと、相変わらずの様子で一氏が突っかかった。

「せやのに"ちゃん"なんて呼んでんのか?」
「お前らだって下の名前で呼んどるやんけ」

 何が悪いのだ、とでも言いたげな小石川に対して、周りは共通の認識を示し合わせるように目配せをしあった。そして、言いにくそうに金色が口を開けた。

「ごめんやけど、なんか健ちゃんが言うと……」
「キモい」
「キモいな」
「なんかキモい」
「きんも~」

「なんでやねん!」

 気を遣う素振りをするのは金色だけで、続けた奴らは躊躇いもなく同じことを口々に言った。
 男子テニス部の人間で苗字で彼女のことを呼んでいるのは石田くらいだろうか。少なくともいまここに居る奴らのほとんどは下の名前で呼んでいるはずだ。その分耳に入ってくるのも下の名前が多く、その流れて特に意識もせずに下の名前が口に出たのだ。そう言い訳しても、周りは理解は示すが肯定しようとしてくれない。挙句の果てに、

「なんか、下心を感じんねんな」

 と言う一氏に、じゃあなんて呼んだらええねん、と不満げに小石川は言った。するとすかさず返答が返る。

「苗字」
「苗字で呼べや」
「苗字に"さん"をつけろや」
「距離感考えた方がええと思うで」
「セクハラやぞ」

「言いすぎやしその全員で次々に喋るのやめてくれへんか」

 自分だけここまで言われることに小石川は納得いかないが、強く言い返さないのは、少し心当たりがあったせいだった。小石川はしぶしぶと顎をかきながら頷く。

「まぁ、下心が無いとは言い切れへんな。……ちゃん、かわええなと思っとったし」

 少し照れくさそうに発した言葉に、一瞬しん、とその場が静まり返ったので小石川は思わずひやりとする。

「あのブアイソが?どこがやねん」

 また何か失言でもあったかと思ったが、最初に口を開いた一氏は平常の様子だったので安堵する。

「いや、普通に顔かわええやろ」
「顔かい」
「真面目でええ子そうやし」
「真面目?」

 その単語に眉根を寄せた一氏は、審議を求めるように仲間達に顔を向けた。

「アイツ真面目か?」
「授業中は居眠りしよるで」
「遅刻は多いし」
「だいたいやる気無いしな」
「成績も微妙」
「大人しいからって真面目とは限らへんで、健ちゃん」

「厳しいなお前ら……」

 一体何があって本人のいないところでそこまで言われているのかと、よく知りもしない彼女に同情してくる。
 とはいえ、小石川は彼女に対する評価を少し改めることにした。

「まぁまぁ、ゆうても可愛いところあるやろ。な?」

 流石に可哀想に思ったのか、フォローに入ったのは謙也だった。さっきから何故か彼女に手厳しい一氏が聞き返す。

「例えば?」
「なんだかんだ素直やし」
「自我が無いねん」
「たまに笑わせられた時は達成感もひとしお」
「確かにこの前謙也さん鼻で笑われてましたもんね」
「……」
「他には?」

 流石の謙也も黙りだす始末だったが、はっと思いついたように体をくるりと白石に向けた。

のこと一番知っとるのは白石やろ、どうや」
「えっ、俺?」

 彼女自身の話になってから何故か静かに聞いているだけだった白石に、謙也はそう話を振った。

の可愛えところ」
「は、か、の?」

 白石は完全に油断していた様子で、彼にしては珍しく焦ったように口籠もった。目をあちこち振り回した挙句に、「何処でも寝られる」とか「マイペース」とか、なんとも微妙な線の言葉を並べて一氏に「のび太の話か?」などと言われている。
 その挙動不審な白石の様子を見て、小石川は何かに気づいたようにはっとした。

「あの白石が言い淀むんか……?短所を長所言い換えさせたら関西一と言われている、あの白石が?」

 一体、はどんな人間なのか。恐ろしくなってくる小石川の横で、金色は天然の酷たらしい所業に対し、憐れみの眼差しを眼鏡の奥にたたえていた。

 謙也はこのままでは後輩の評判を落として終わってしまうと思い、更に人を探した。彼女と関わりのある人間--財前、金太郎。ろくなことを言わなそうな奴しか居ない。
 ふと、さっきから我関せずとベンチに座ってうとうとしている千歳が目に止まる。

「千歳はなんかあるか?」
「?」
の可愛いところ」
の可愛いところ?」

 千歳は全く聞いてなかったように鸚鵡返しをすると、眠そうな目を開いて考えるようにじっと宙を見つめた。
 そして、

「付け根」

 ぽんと千歳の口から出た言葉に、暫く意味が飲み込めないと言うように静かになった後、満を辞して一氏が

「何の!?」

 と声を大にした。

「なんなん??どういう意味や?」
「ちょっとお父さん!金ちゃんまだ寝かせてへんのよ!!」
「指か?指の付け根か?え?言うてみい」
「特殊すぎやろ」
「何を馬鹿な……男子ども」

 千歳がふっとほくそ笑むと、馬鹿な男子共はにわかにテンションが上がり始める。
 仲間たちはがどうのとは関係なく、どの付け根が一番可愛いか、という大喜利が開催され始める一方で、驚愕して固まっていたのは白石だった。
 しばらくしてはっと我に返った白石は、盛り上がっている仲間達を眺めて笑っている千歳の隣に座って目線を合わせた。

「千歳、にあんまり変なちょっかい出し方したらあかんで」
「変なちょっかいって?」
「せやから、も女の子なんやからそういう事言うのはやめ」
「そういう事って?白石は何ば想像しとっと?」

 ニヤリと悪い顔をして笑う千歳に、白石はにわかに顔を赤くして眉根を寄せた。

「なっ俺はそうやなくて……!ていうか、言い方に悪意があるやろ!色々と!」
「はぁー、白石はムッツリばいねぇ」
「千歳っ!」
「わかったわかった。そぎゃん怖い顔せんでもよかばい」

 白石を揶揄う千歳と、いいように遊ばれている白石の横で、他の部員達はサラリーマンの宴会のような盛り上がりを見せていた。
 千歳が出してきたお題に対し、どちらかといえば上手い事を言おうという流れになり始めていたところで、それに異議を唱えたのは悪ノリする金色だった。

「アンタら、そんなヒヨったことばっか言うて!男ならハッキリ言いたいことがあるんちゃうんか!」
「せやせや!」
「健ちゃんここはビシッと言うたれ!」

 便乗した一氏に囃し立てられた小石川は、皆の注目を受けながらも咳払いをして姿勢を整える。
 そして、深く息を吸うと右腕を掲げながら高らかに叫んだ。

「やっぱり女の子は、二の腕の付け根がさいっこ……」

 小石川はフェンスの向こうに驚愕して目を見開いた。それを見ていた他の男子たちも、異変に気づいて彼の視線の先を追った。
 テニスコートを囲うフェンスの向こうには、さっきここを訪ねてきたの姿があった。
 男子全員の視線が向いたことに、少女は一瞬肩を萎縮させる。

「ちょっと忘れ物して」

 しばしの沈黙の後、誰に聞かれたわけでもなく、は自ずと指を差しながら説明をした。
 そしてまた一時を置いて、小石川は上がったままだった腕を下ろして口を開いた。

ちゃ……さん、違うんや、今のは」
「え……あ、はぁ」
「今のはユウジに言えって言われて」
「自分で勝手に言ったんやろ」

 責任をなすりつけようとした先に、早口で言い返される。

「ちゃうねん」
「あ、はい……」
「いや、ほんまに、ほんまに」

 伝わっている気がせず、上手く言葉が出てこないもどかしさで体だけが前のめりになる小石川に、は気まずそうに目を逸らす。

「あー……別に聞いて無かったので……どうぞ続けてください」

 今更取ってつけたような気遣いの言葉を述べると、少女は逃げるように踵を返した。


 薄手のカーディガンを深く羽織り直して遠ざかっていく彼女の後ろ姿を、小石川少年は切ない目で見送った。